サクラと紅茶

日常のことを書いていきます。 物書き志望でもあります。 第2回富士見ラノベ文芸賞 一次選考通過

物書き志望です。
第2回富士見ラノベ文芸賞 一次選考通過
suntu500@yahoo.co.jp

古代中国・後漢初代皇帝・光武帝の兄、劉縯の短編小説。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/139306536/810627221

「機動戦士ガンダム 水星の魔女」第15話のネタバレ入りますよ。








みんな待ってたグエルくん回だったけど、想定以上に悲惨で、期待以上に優遇されてた(キャラとしての扱い的に)。


観終わった感想としては、みんなと同じように、グエルくんが王道主人公だった。
ていうか、制作者サイドも裏主人公として強く意識しているのかもしれないな。


「裏」っていうのが実はミソだと思ってます。
もしスレッタじゃなくグエルくんを「表」の主人公としてこのアニメを作ってたとしたら、たぶんここまでグエルくんを丁寧に描けない。
表主人公は、なんだかんだでモビルスーツで戦闘をしたり、その他の出番も多くなって、どうしてもある程度活躍させないといけない。
だけどそれはキャラクターの(この場合はグエルくんの)行動や心理を描くリズムというか流れを悪くしてしまうと思うんですよね。
グエルくんもモビルスーツには乗るけど、お父さんを殺しちゃったり、結局死にかけていた子供を救えなかったりと、ドンパチ的な戦いがメインではなく、グエルくんの心理や人生を形づくる流れの一つとして使っている。


ここまでのグエルくんは「傲慢で世間知らずのお坊ちゃま」→「連戦連敗からの転落と挫折」→「そこからさらにどん底へ墜ちる」→「再生と復活へのきっかけ」(イマココ)と、これはまさしく王道主人公の流れの一つ。
でもさっき書いたように、表主人公だと、この流れをここまで丁寧に流麗に描くのは不可能。
個人的にはここまでのグエルくんの展開は、完璧な意思の疎通とパスワークからシュートまで持っていったサッカーチームのような、制作側の陶酔感すら感じられるように思えるけど、それはさすがにちょっと言い過ぎかな(苦笑い)。


こうなるとグエルくんの物語をサイドストーリーとしてだけで終わらせるのも、もったいない。
ガンダムエースあたりで相応に実力のあるマンガ家さんにお願いして、グエルくん視点でグエルくん主人公のスピンオフ漫画を描いてもらえないかなあと期待してしまうよ。



一応、歴史小説を書いているので、本当は自分の考えや想いは直接書くのではなく、作品の中で表現してみせろという信条みたいなものがあります。
それに書いてる人間が「これはこういうつもりで書いています」と言っちゃうと、読み手の考えをそっちに誘導してしまい、独自の考察や判断を阻害してしまうという危惧もあるんですよね。


ただここ最近、どうにも作品を書くための気力が湧いてこず、書きたいと思えるものが「自分はこういうつもりで書いています」という文章ばかりなってしまって。
やはりこういうのを語りたくなるのは、分野を問わず創作にたずさわる者の業みたいなものなのかもしれない(苦笑い)。


そんなわけでちょっと申し訳ないんですが、しばらくそんな感じの内容の日記(エッセイというべきかな)を書かせてもらいますね。
誰かの自分語りなんか鬱陶しいという方はUターンでお願いします(;^_^A


さて、最初に何を書こうかな。
まず思いついたのは、歴史や文章そのものについてかな。


昔から歴史は好きでした。
知ってる人は覚えてるであろう「学研の科学と学習」。
あれの付録についていた日本史のマンガとか今でもよく覚えているし、子供向けの歴史小説もちょこちょこ読んでいました
といっても当時はマンガや推理小説の方がメインで、歴史小説は気が向いたら程度でしたね。


あと高校の選択授業では日本史を選んでいました。
だからなんだかんだで昔から歴史は性に合っていた自覚はありましたね。


でも大部分の人にとって歴史=自国の歴史(日本史)というのが通例で、ぼくも当時は中国史の「ち」の字もわからんままでした(照)。


変わってきたのは田中芳樹先生の「銀河英雄伝説」に出逢ってからですね。
銀英伝は架空の未来宇宙史ですが、歴史大好きな田中先生の筆力によって、本物の歴史と見まがうほどの壮大さと緻密さを兼ね備えた傑作です。


田中先生は中国史が大好きな方で、ご自身も今でも中国史関係の小説を書き続けていらっしゃいます。
そしてぼくが二十代の頃、田中先生は「紅塵」という作品を刊行なさると知り、しかも発売記念にサイン会があるとのこと。
中国史に興味がないとはいえ田中芳樹信者のぼくとしては、購入して参加するしかないわけですよ(笑)。
そのサイン会がファンとして先生に初めて会った日ですね。
もう20年以上前ですが、今でもよく覚えています。


「紅塵」の舞台は、中華大陸が「金」と「南宋」という国に分裂していた時代です。
12~13世紀あたり。日本でいえば平安から鎌倉時代ですね。
南宋とか金とか言われても、中国史に興味がない人にはまったくわからないかもしれない。
ぼくも当時、宋くらいはわかったんですが、金は初耳(初読み)でした。
そして田中先生には申し訳ないんですが、読後もいきなり中国史にハマったというわけでもありませんで(;^_^A


ただなんでしょうね、いきなりハマったではないにしても、少し興味が湧いてきたというか。
そんなわけでまずは先生が書かれていた中国史関係の短編小説に手を伸ばすようになりました。


ただやっぱり、土台の知識がないだけに、読んでてもわからないことが多いんですよね。
日本人ならそれほど歴史に興味がなくとも、戦国時代とか幕末とか、江戸時代とか鎌倉時代とか、なんとなくの歴史区分や、その時代の人物、そのときにあったことの一つや二つや三つや四つくらいは知ってることがあるでしょうが、そういうものがまったくない。
だから小説としてはおもしろくとも、表面的な部分でしか楽しめず、それがなんだかもったいなかったり、もどかしく感じられてしまって、そこから図書館にある中国史関係の歴史書にも手を伸ばすようになってきました。


まずは広く浅い入門用の書籍だったり、読んだ小説に出てきた時代を取り上げた本だったりを選んで読んでいました。


また田中先生だけでなく、陳舜臣先生や塚本青史先生、宮城谷昌光先生、司馬遼太郎先生の小説にも手を出すようになり、特に陳舜臣先生はそのものズバリの「中国の歴史」という古代中国を通しての書籍も発表されていたので、それも全巻読ませてもらったり。


で、いつの間にやら図書館にある中国史関係で興味のある本はだいたい読み漁ってしまって(笑)。
もちろん読んでないのも結構ありますが、それは少し読んでみて今一つ自分に合わないと感じたものだったり、またさほど食指が働かない時代を取り上げたものだったりが理由で。
自分は商(殷)から宋あたりまでが好みで、実は元以降の本は今でもほとんど読んでおらんのですよ(;^_^A
もっともこれもそのうち興味が出てくるかもしれませんが。


そんな中国史を中心とした本ばかり読んでいた三十代を過ごしていました。




ここのところあまり本を読んでなくて、読むにしても多少大判のものを読むことが多かったんですが、ひさしぶりに文庫本を楽しんでいます。
地下鉄に乗ってるときとか、スマホでもいいんだけど、やっぱり個人的には文庫本の方が落ち着く。
スマホだといろんなサイトや情報を行ったり来たりだけど、文庫本の小説だと、その世界に入り込めるからね。
このあたり若い衆はスマホのフットワークのよさの方が性に合うんだろうけどね。


地下鉄内で少し見回してみると、自分以外にも文庫本を読んでる人はチラホラ見かけます。
だいたいが年配の人だけど、自分も含めたそういう人たちにまだ需要はあるんだな。




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