昔に比べてずいぶん怒らなくなったなあと感じています。
いや、今でも激怒する事柄はありますが(苦笑い)、
その範囲は小さくなってるように感じる。


最近感じるのは、
怒りというのはその人の限界を表す一つの計器、枠なのかもしれないなと。
ごく端的に言えば、誰でも5歳のときに本気で腹を立ててたことに
今でも同じように怒ってはいないでしょう。
ぼくも10代、20代の頃に心底腹を立てる、
怒髪天を突くというほど怒っていたことに、
今はさほど、あるいはまったく腹を立ててはいません。


もちろん怒りは最大のエネルギーというとらえ方もある。
確かに怒りのエネルギーはものすごい。
何かを起こすとき、何かを劇的に変えるときにはこれ以上ないパワーになりうる。
歴史上の革命は、怒りから始まるものが大部分だ。

だけどそのエネルギーはコントロールがほとんど不可能という欠点もある。
ニトロ、ターボ、ブースターの類で、
とんでもないパワーで爆発的なスピードを発揮するけど、
曲がることも止まることも困難になる。
そのためにコーナーを曲がりきれずぶつかって大破しちゃったり、
他の人を轢(ひ)いてしまったり、道連れにして爆発しちゃったりすることも多々ある。
革命の狼煙を上げた人たちは、たいてい暴走してやりすぎ、
次の賢さを残した人たちに取って代わられるパターンも多いしね(苦笑い)。


中には子供の頃から、若い頃から同じように腹を立て続けている事柄もあるかもしれない。
それはおそらくその人の「核」。
一生変わることはないかもしれず、そのことに生涯こだわって、
突き詰めていく事柄、一生ものの仕事かもしれない。

だけど同時にそれは、その人の「限界」とも言えるかもしれない。
絶対の長所であり短所でもある。
そのことをわきまえていたら、おそらくその人は、その事柄の一人者になれるだろうな。


ぼく自身、10代、20代の頃には死ぬほど許せなかったことが
結構許せるようになってきてると書きましたが、
許すといっても無かったこと放置していいことではなく、
許容できるようになってきたというのが正確かな。
怒りの対象だった人たちの立場や気持ちを見ることができるようになった、
わかるようになってきた。
だけどわかるからといってそのままにしていいわけではなく、
わかったからこそより効率的で有効な改善方法を思いつけるようになってきたというか。

その見方や考え方が正しいか本当にはわからないけど、
そう思える余裕ができたことは悪いことじゃないだろう。
だけどこれは逆に、暴走するほどのパワーがなくなったということでもある。

だからこそきっと、若い人たちとの協調が重要なんだろうな。
若者から本当に尊敬される年長者の指導力があったら、
彼らの暴走するパワーをコントロールすることができて、無敵の力になる。
幕末期の西郷隆盛と薩摩藩にはこの力があったからこそ明治維新を成し遂げ、
西郷の統率力が及ばなくなってきたからこそ西南戦争が起こってしまった面もあるんだろう。


だから年長者には知性や見識だけでなく、
なにより人格が必要なんだろうなーとも思ったりしています。
若い方に「言うことを聞け!」というだけですませられるかどうか、
自分が若い頃を思い出せばほぼ不可能だとわかるし、
だとすればこの部分を若い衆に要求するのは無理があるものな(苦笑い)。


なんだか途中から支離滅裂になってきましたが、
普段思ってることをちょっと書いてみたりしました(照)。