素人とはいえモノ作ってる人間が言っちゃいけないことかもしれないけど(苦笑い)、
でも実は本気でそう思ってます。
というのも、傑作はなにをもって傑作とするのか、駄作はなにをもって駄作とするのか、
完璧な定義が存在するわけではないと感じているからです。


漫画でも小説でもドラマでも映画でも
「支持する人が多く内容が優れているもの」が傑作ということになるかと思いますが、
実はこの根拠は相当漠然としている。
支持する人が多いというのは、どれくらいの人数がいればいいのか。
その人数はどうやって計るのか。


逆に人気があるからこそさげすまれる作品も多い。
人気の俳優や女優を使っているだけでミーハーしかつかまないと評されるものが主なところになるかと思いますが、
支持する人が多いということに変わりはない。


では「内容が優れている」というのはどういう基準で測るのか。
これも究極のところ主観でしかない。
どれだけ「優れてる」とする人が多数いて、その理由を数え切れないほど列挙しても、
必ず不支持の人はいるだろうし、
不支持までいかなくても「言うほどおもしろくはない」と感じる人もいるでしょう。
そういう人たちの感性が間違ってる、劣ってるとする根拠もまた、どこにもありません。


思い返してみれば誰にでも、
「世間一般ではそれほど評価されてないけど俺にとってはこれは傑作だ」という作品が、
小説だろうが漫画だろうがアニメだろうが映画だろうがドラマだろうが音楽だろうが、
一つや二つや三つや四つくらいきっとあるはず。
ではそれが「世間では支持する人が少なく、
内容が優れてると評価する人も多くないから「これは駄作ですね」と言われて
「確かにそうですね」と受け入れられるんだろうか。
受け入れる義務があるんだろうか。


かといってその「駄作」を「この作品のよさがわからないなんて他の奴らはダメだ」というのもまた違う。
結局、感性なんて人の顔と同じようなものです。
まったく違う作りをしているし、見た人によって好みの違いはきっと出る。
美男や美女が人気を集めやすいとしても、
美女が複数人いれば「俺はこっちよりあっちの方がいい」「いや、俺はこっち」という風に微妙に分かれてくるのも自然な話で、
それをとがめたり「お前は間違ってる!」とするのも馬鹿馬鹿しい限りです。


ぼくは「文化=人の心を動かす力」だと思っているところがあります。
だからぼくにとって「究極の傑作」は、打ち震えるような感動だけでなく、
うれしい、悲しい、楽しい、寂しい、などもっと様々な相反する情動も含めたすべての感情を満たす作品。
「この作品さえあれば他の作品など必要ない」と、
全人類、それも現代だけでなく未来も、可能なら過去の人間もすべて含めて満たす一品。
いわば「文化を終わらせる作品」。


でもこんな作品、神様だって作れません(苦笑い)。
いや、神様は作れるけど作らないだけかもしれない。
けど人間にはまだ無理ですし、人類が滅亡するまでかかっても不可能かもしれません。
そもそもそんな作品を作り出す「媒体」すら、まだ手に入れられてないかもしれない。
その意味では、今現在どれほど「傑作」とされる作品でも不完全だと言えるでしょう。


その観点からいえば、傑作と駄作の間にさほどの差はありません。
たとえば全人類のほとんど全員が感動する傑作があったとしても、
一人感動できなかった人がいれば、その作品は完璧ではない。
逆にその一人が感動する作品が、他の全人類にとって駄作だとしても、
その人にとってはまごうことなき「傑作」です。


結局のところ、傑作と駄作の判定基準は個人の感性に帰せられます。
ぶっちゃけ、当の本人にすら、傑作と駄作を自分では決められない。
すべては読んで、見て、聞いてのことで、そこから感性がどういう答えを出すかという話で、
その結果を理性ではコントロールできないし、
コントロールしようとするならその判定は情報操作と同じで価値がゆがみます。


だからいかに「駄作」とされてる作品だとしても、
この世のどこかでその作品を「傑作」としている人だっているかもしれない。
あるいはまだそう思ってくれてる人がいない作品だとしても、
これから先、その作品に出会って「傑作」と感じてくれる人が現れるかもしれない。
そして一人でも「これは傑作だ!」と思ってくれる人がいるなら、
その作品の価値はベストセラーの作品にまったく劣らない。

そんな風に考えています。


だから「自分の作品なんて…」と自己嫌悪に陥ってる人も、
どこかにいてくれるかもしれないピンポイントな感性を持つ人のことを思い、
勇気を持って作っていきましょう、お互いに(笑)。


最後に、この文章は「他者がどう感じるか」を基本にしてますが、
作った本人が「これは傑作だ!」と思えるなら、
それはそれでアリだとぼくは感じています。
むしろそれができるのなら、それこそ「完璧」なのかもしれないなあ。